卑怯者になるな 戸田先生は、第1の難をば、獄中において、耐え忍ばれた。
 会員は激減し、学会は存亡の危機に陥ってしまった。
 第2の難は、戦後、学会発展の途上において、事業の大敗北として競い起こった。
 多くの弟子たちは、偉大なる師匠を、恩師でありながら、軽んじていた。
 ある悪者は、非難中傷した。
 そして、ある恩知らずの弟子たちは、難が来ると師匠を侮辱して、あざけり笑って、去っていった。その光景は、私の胸に焼き付いて離れることはない。
 当時の理事長も、師である戸田先生を誹謗したのである。
 多くの大恩を受けながら、畜生のごとき心をもって、偉大な師匠の恩を仇で返した輩は、当然のことながら、その最終章はあまりにも見苦しく、みじめであった。
 「君よ
 卑怯者になるな!
 傲慢になるな!
 恩知らずになるな!」
 これは、牧口先生、戸田先生以来の叫びである。
 仏法は勝負である。
 師も勝った。
 弟子も勝った。
 師弟不二にして、永遠の勝利を、私は築いた。
 なんという誉れか。
 なんという満足か。
 大聖人と同じ心をもって、広宣流布のために、不惜身命の者として、大勝利者として、その永遠の生命は続くのだ。
 「池田門下生も、かくあれ!」と、私は叫んでおきたい。

 迅速な対応で組織は躍動
 ここで、世界の知性の言葉を、いくつか皆さまに贈りたい。
 イギリスの劇作家シェークスピア。「ハムレット」「オセロ」「マクベス」「リア王」の「四大悲劇」をはじめ、数多くの名作を残している。 
 彼は戯曲の中で。「傲(おご)れるものは倒れる」と綴った(小田島雄志訳「リチャード2世」、『シェイクスピア全集Ⅵ』所収、白水社)。
 また、、「近代看護の母」ナイチンゲールは記している。
 「真に勇敢な人の中に高慢な人がいたでしょうか? すべて高慢は、訓練の結果ではなく、訓練される能力の不足の結果を表しています」(湯槇ます監修・薄井坦子他偏訳『ナイチンゲール著作集第3巻』現代社
 本当に勇敢な人は謙虚なものだ。
 すぐに傲(おご)り高ぶる。同志を見下す――それ自体が、その人間の愚かさを証明しているのである。
 近代日本を代表する思想家・内村鑑三は述べている。
 「世は誠実を以ってのみ勝つことが出来ます。世に虚偽(いつわり)多しと雖も、虚偽を以って之に勝つことは出来ません。正義はやはり最後の勝利者であります」(『内村鑑三著作集第8巻』岩波書店
 内村鑑三といえば、かつて、私の友人が彼の著作を愛読していたことを思い出す。日本の多くの知識人が、敬意を表するような人物であった。
 誠実の人は美しい。 
 好感が持てる。信頼できる。最後には勝つ。
【第2総東京最高協議会/2006-01-04 聖教新聞

 今年は、ニセモノと本物がはっきりする年になると思う。いや、はっきりさせちゃる。退転する奴、除名になる奴、いろいろ出てくるだろうが、どんな状況になろうとも、「まっすぐに師弟の道」を歩むのだ。
 それができない幹部にはさようなら!
*「まっすぐ」とは、 正直で偽ったりごまかしたりしない・こと(さま)。

 目黒区議の不祥事に、憤りを覚えるとともに、なぜ彼らはあのような事態を引き起こしてしまったのだろうか。と思う
 最初は、本人も自らの使命を果さんと誓ったはずなのに。
 目黒の同志の苦悩を思えば、私などは、なんと恵まれた環境で戦えるのかと思う。もし、私が彼らのように忘恩の輩になってしまったら、即座に除名処分を願いたい。生き恥を晒してまで組織に残る気など微塵もない。
 
 
 

縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり、然るに今此の一と大と事と因と縁との五事和合して 値い難き善知識の縁に値いて五仏性を顕さんこと何の滞りか有らんや春の時来りて風雨の縁に値いぬれば無心の草木も皆悉く萠え出生して華敷き栄えて世に値う気色なり秋の時に至りて月光の縁に値いぬれば草木皆悉く実成熟して一切の有情を養育し寿命を続き長養し終に成仏の徳用を顕す之を疑い之を信ぜざる人有る可しや無心の草木すら猶以て是くの如し何に況や人倫に於てをや、我等は迷の凡夫なりと雖も一分の心も有り解も有り善悪も分別し折節を思知る然るに宿縁に催されて生を仏法流布の国土に受けたり・・・・・・
 此の度必ず必ず生死の夢を覚まし本覚の寤に還つて生死の紲を切る可し

(御書574p,三世諸仏総勘文教相廃立)

 多忙を理由に心の余裕を失うと、心身共に疲労が増すばかりだ。
 きっと、酷い顔つきをしていたことだろうと思う。
 これじゃあ、会う人会う人こちらを警戒し、話なんかは聞いてもらえない。
 今晩、帰り際にふと夜空を見上げれば満月が雲ひとつない夜空に煌々と輝いている。こんなことさえ気づかずにここ数ヶ月を過ごしていたとは。
 
 男子部時代に一度だけだが、講義を受けたことがある御書。情緒豊かな表現に、私は穏やかな気持ちになる。
 この世の迷いなどは捨て去り、今の時代を学会と共に過ごせる事が、なんと幸福なことであろうか。
 


 

同じ一生ならば痛快なドラマを

 皆さまも、「不滅の歴史」を残していただきたい。広布の歴史に、永遠に名を残していただきたい。どうせ生きるのならば、思う存分に動いて、語りぬいて、痛快に勝ち抜いて、生きていきたい。人間は、いつかは死ぬ。戦っても死ぬ。戦わなくても死ぬ。同じ死ぬなら、潔く「自分は全部やりきった!」「ああ、面白い人生だった」と、にっこり笑って旅立ちたい。
【1997-08-27/『輝きの明日へ』13-52p/東京牧口記念会館 】

 今世で自分は、どれほどの事ができるのか。平凡な毎日を過すことを願っていた時もある。家庭を築き、小さいながらも家もある。この先、老後の経済的な心配を除いて取り立てて不安材料はない。
北海道から出てきて24年。北海道で過ごした時間よりも長く今の地に住んでいる。転職も経験した。
 今、自分の人生は何だったのだろうと、ふと思う時がある。
 やっぱり年をとって保守的になってきたのだろうと思う。この先、あえて苦労を避け、適当に過すことも可能だろう。自分の本当の使命とは何か。未だにわかってないのかもしれない。人間革命途上ではあっても、『この世で果たさん使命』があるのだ。
 所詮、願うべきは「仏国土」である。命を惜しんで何事かを成すことはできない。今が私の転機ととらえるべきなのだろう。

 この先、このブログをどうすべきなのか、今思案中。今は、なかなか更新ができない。
 このブログをご覧になっている方々には、大変に申し訳なく思います。今しばらくは、週1回程度の更新になると思います。
 

大難は「我らがために」と感謝を

 日蓮大聖人が「私のことを、こういうふうに人に話しなさい」と教えられた珍しい御書がある。〈「弥三郎殿御返事」、御書1449ページ〉
 ある在家の門下に、仏法対話の仕方を教えられたのである。〈一説には武士であった斉藤弥三郎とされている〉
 わかりやすく大意を言うと、「(日蓮大聖人というお方は)日本の国が仏法の正義にそむいたゆえに『このままでは滅びてしまう。外国からも攻められるだろう』と、日本の国を救うために、『わが身はどうなってもよい』という覚悟で、正義を叫ばれた」(御書1450ページ)と。
 その結果、「20余年の間、いる場所を追放され、弟子等を殺され、わが身も傷を受け、2度まで流罪され、つには頸を切られるところであった。これはひとえに日本国の一切の人々が将来、大苦悩にあうことを早くから知って、嘆き(助けてあげようと思って)行動した結果である。
 もし恩を知り、心ある人ならば、(大聖人が)2つ打たれる杖の1つは替わりに打たれるべきである。
 それもしないどころか、反対に迫害するとは、まったく、どうしたわけであろうか。(中略)たとえ知らないで、誤って自分の親を敵と思い違え、ののしり、あるいは打ち殺したならば(知らなかったと言っても)どうして罪をまぬかれようか」(同)
 大聖人は、こう言いなさいと、門下に教えられたのである。
 信仰してない人でも大聖人に恩を感じて「2つの杖のうち一つ」は受けるべきだと。いわんや門下は当然であった。
 また、こう仰せである。「(日本の人々が大聖人を非難しているありあさまは)譬えば『嫉妬した女性が(焼きもちのあまり)目をいからせて相手の女性をにらみ、自分のものすごい形相を知らずに、かえって相手の目が恐ろしいと言っている』ようなものである」(同) 
 ――今も全部、焼きもちである。
【関西文化会館/1997-05-20】

 かつて、“僧衣の権威”の権威に苦しめられた学会員に、勇気と希望を与えたのは誰か。もし、弟子と名乗るならば、「波浪は障害に会うごとに、その頑固の度を増す」の言葉通りの戦いをしようじゃないか!   

秋瑾 中国革命の花

彼女は、31歳で処刑された。中国の「女性革命家第1号」と呼ぶ人もいる。いわば「中国のジャ ジャンヌ・ダルク」であろうか。
 若き彼女の壮烈な一生が、全中国の女性を揺さぶった。そして男性も、「こうしてはいられない」と、後に続いた。学会でも、女子部が頑張れば男子部もやらざるをえない。それに似ているかもしれない。
 秋瑾の詩に、こうある。「一腔(このむね)の熱血 勤めて珍重せん 灑去(とびち)らば 猶能く碧涛(みどりのおおなみ)と化す」(竹内実・吉田富夫著『志のうた 中華愛誦詩選』中公新書)。〈「この熱き血潮を大切にしよう。(なぜなら、それが)飛び散ったならば、碧色(みどりいろ)の大波となるからだ」。碧は海の色。青緑。義人が流した正義の血は碧玉になると伝えられていた〉
 自分は死んでもよい! その熱き血潮は、革命の波となって、私を殺した卑劣な権力者を押し流してしまうだろう! まさに彼女の言う通り、処刑の4年半後(1912年2月)に、孫文らによって清王朝は崩壊した。
 彼女が生まれたのは、清王朝の末期。(1877年=日本の明示10年。生年には別説もある〉
 中国は、西洋の列強に侵略され、国土をとられ、やがて日本にも戦争でやられた(日清戦争)。
 祖国が滅亡の一途をたどっているのに、政治(王朝)は何もできないで、自分たちの利権のことしか考えない。反政府運動を弾圧するだけである。
 社会を正そうにも、周囲の男性は、強い者の顔をうかがう者ばかりである。
 「男どまは何をやっているのか! だらしない! もう男なんかにまかせておけない!」
 彼女は、裕福な家庭に生まれた。教育も受け、美貌にも恵まれていた。楽に生きようと思えば簡単であった。しかし、彼女は違った。
 「祖国がいじめられている今、じっとしてはいられない」と立った。
 彼女は、当時のしきたりで、親が決めた相手と結婚させられていた。しかし、夫は、目先の出世のことと遊ぶことしか考えない。「それならそれでよい。私ひとりで戦う」。強い女性である。
 彼女は資金を工面し、単身、日本へ留学する(1904年)。
 当時、日本は孫文をはじめ中国の革命家の拠点になっていた。彼女は日本で、のちの文豪・魯迅とも会った。
 寥承志さん(中日友好協会初代会長)のお母さん(何香凝女史)にもあった。
 ある時、事件が起こった。あまりにも多くの“革命学生”が日本に集まるので、日本政府が「留学生の取り締まりを強化する」と発表したのである。(1905年=明治38年
 これは清国政府の意向でもあった。秋瑾は怒った。さっそく抗議集会。
 「それなら、さっさと皆で中国へ帰りましょう!!」
 彼女は演壇でいきなり短刀を取り出した。そして驚く男たちの前で、テーブルに、つき立てた。
 「もしも国へ帰ってから革命を裏切り、友を売って自分の栄達を求めようとする者があれば、私が、この刀をくらわしますよ!!」
 裏切る人間は、絶対に許さない。すごい気迫である。魂を奮わせる叫びであった。
【1997-03-28/『輝きの明日へ』7-31p/全国幹部研修会/東京・戸田記念国際会館】

 「人間革命」とは違う革命であっても、彼女の決心に劣るものであってはならない。
 退転し、学会を去った反逆者の悲劇は、まずその者の心理に悲劇が内在している。彼らは、多くのものを憎悪しすぎており、その感情に支配されている。彼らにとって、かつての同志は、哀れむべき人々であると同時に、彼らの理想を妨害する者でもある。
 彼らに対して同情のみをあらわにする者もいるが、それはみずからもまた退転者たりうることに気づいているからであろう。
 修復は、けっしておこらないわではないが、安易にそれを期待すべきではない。腐ったものは新鮮さを取り戻すことはない

きわめてまけじたまし(不負魂)の人にて我がかたの事をば大事と申す人なり(御書986ページ)

 日蓮大聖人が、四条金吾を評した言葉である。四条金吾の人生は荒波のごとき日々であったが、最後には主君の信頼を勝ち取り、所領も増えた。負けじ魂で勝った。

 私の出身校の指針に「百折不撓」という言葉がある。100回負けても、101回目で勝て!決して、諦めない。勝つまで持続しろ!と、個人競技などはよく「負け抜き戦」をされたものだ。勝つまで、試合を止めることができない。自分の限界を知ることと、限界を破る負けじ魂の鍛錬であった。当時は教師を恨んだものだ。

 池田SGI会長24歳の日記には、「仏法ハ勝負デアル。(中略)今月も、自分に勝ち、境遇に勝ち、社会への前進の勝利をしるしたい」とある。恩師の事業は困難を極め、給料は遅配から無配。病弱で高熱が出た。血痰を吐いた。それでも、ただ、恩師のために働きつづけた。
 昭和29年になっても、学会はやっと17万世帯。毎月の折伏も約1万世帯だった。75万世帯へ、拡大の大波をおこさねばならなかった。翌30年8月、当時、青年室長だったSGI会長は北海道・札幌に派遣された。当時の札幌はわずかに500世帯。入信して1,2年の人が大半であった。こうしてはじまった拡大の戦いはわずか10日間で386世帯という全国トップの成果を勝ち取った「札幌夏の陣」である。
 「皆、勝たしたい。負ければ、本人も、家族も、応援した多数の人々が悲しむ。可哀想だ。負ける戦はさせてはならぬ」28歳のときの日記である。
 勝負とは、自身に挑む孤独な戦い。負けじ魂が金字塔を打ち立て、歴史を開いてゆく。だれが見ていなくとも、戦いつづける人が、師に応えゆく人である。

惰性と傲慢から目を覚ませ!

 法華経の信解品では「四大声聞」と呼ばれる釈尊門下の長老たちが、未曾有の大法を聞いて、それまでの惰性から豁然(かつぜん)と目を覚ましていく生命の劇が描かれている。
 長い間、修行してきたという慣れ。もはや、年老いたという疲れ。それなりに境涯を開いたという傲り──。
 そうした命の無明を打ち破ったのが、師である釈尊の師子吼であった。
 彼らは、大仏法の真髄の計り知れない奥深さに目を見張り、再び求道の心を燃やし始めた。その生命は、いまだかつてない歓喜に包まれ、躍動していった。
 経典では、その歓喜が「無上宝聚 不求自得(無上の宝聚は 求めざるに自ら得たり)」と表現されている。
 我々もまた、先輩になり幹部になっても、新たな決意で立ち上がり、「人生の勝利の総仕上げ」へ、いな、「三世永遠の勝利の行進」へ、新たな一歩を踏み出すのだ。
 師の大恩への尽きせぬ感謝を込めて、師弟不二の心で、後に続く無数の人々のために道を開いていくことである。
 戸田先生は、いつもこう言われていた。
 「若い人のために、学会はあるのだ。
 先輩は、後輩にヤキモチを焼いたりしないで、成長を祈っていけ! 社会のため、日本のため、人類のために活躍する若い人を育てるのだ。
 これが、学会の目的である」
 創立80周年へ一段と総力をあげて、「新しい人材」を育て、「新しい創価学会」をつくり、「新しい広宣流布」の時代を構築してまいりたい。
2006-07-08/新宿区】

 一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ(御書970ページ)

 長年信心をしてきたという慣れ、体力的な疲れ、大丈夫だろうという驕り。自分は大丈夫と侮ってはいけない。
 昨日、B長宅を訪問。8月の壮年大会に向けて、家庭訪問の約束をするも、B長の一言に愕然。「回りたくても、一人じゃ無理。家庭訪問の仕方がわからない」。いきなりの顔面パンチを食らった。
 分かっているようで実は、何も知らないで過ごしてきた。現実はやはり厳しい。
 進歩のない組織で、長い間を持ちこたえることはできない。 
 このままじゃ、組織の浮き草と化すところだった。忙しくて、なかなか手が入らないと嘆きたくなるが、それでは、「作師子吼の事」とはならない。慣れ、疲れ、驕りを吹き飛ばす「師子吼」で地域の団結を図りたい。

 今回、ありがたくも使命を頂き、新たな場での活動となる。少々のことでは、驚かないつもりでいたが、心臓が口から飛び出しそうになるくらい、緊張の連続で、頭痛、吐き気、めまい、もうこりゃあ病気になってしまったと思ったくらいだ。一時的な混乱は、やっと治まった。 後退は不可能。前へ進むしかない。